2008.12.4

スウィングガールズという映画を見た話をずいぶん前に書いた。ここ最近にも高校生がバンドを始めるという映画を2本ほどテレビで観た、というか、断片的にチラ見しただけだが、ああいう映画って、やはりかなり無理がある。誰でも練習すればあんな演奏が出来るようになるわけじゃないし、他人の楽器をいきなり持って演奏するとか、まして、機材をガーっと運んで突然その辺をステージにしてやっちゃうなんて、現実的には、人に聴かせられるようなモノにはならない。

ただ、ロックとかに偏見を持った教師の存在は身をもって知ってる。僕が楽器を始めた頃は、今とはまったく環境が違ったしね。高校の芸術鑑賞会みたいなのに来たギタリストまでが、エレキギターはギターじゃない、なんて嫌悪をあらわに言っていた。中学時代、フォークソングを演奏するという前提で作ったバンドで、学校の行事前日の練習中、遊びでロック(たしかバッドカンパニーだった)をやったら、ブラスバンド部の顧問の教師が「コラー! おまえら何をやっとるかー!」と叫びながら、ものすごい勢いで走って来たのを今でもリアルに思い出す。ウソみたいだが、ホントの話。ロックは、タバコや万引き、喧嘩と同じ扱いだった。映画の中で「それは時代遅れでは?」みたいな台詞があったけど、そうじゃなくてやっぱり個人の能力の問題だと思う。コンクールの度に必ず賞状を持って帰って来ていたあのブラバンが、いったいどういう精神で音楽をやっていたのかとは思う。あの先生、当時の自分の行いを今は恥じているのだろか。

結局は「本当に大切なことって何なの?」と「芸術って何なのよ?」という問いがここに残るわけだが、この二つのテーマの実体は実はひとつだ。だって芸術とは人間そのものだから。ジョージハリスンは「結局最後は宗教しかない」みたいなことを言ってたけど、僕は「最後は芸術しかない」と確信している。芸術を考えることは、自分を見つめることなのだ。

家人Mの展覧会が、まさに今、神戸で開催されている。今回これまで以上にいろいろ苦労もしたが、聞くところによると、結果的にはかなり評判がいいらしい。初めて行った新しい試みが功を奏したということらしいが、実は常に新しい試みというのはある。要するに、毎回同じことはしていないということ。その人の芸術というのは死ぬまで変化しながら生き続ける。だから常に作品はプロセスでしかなくて、完成することはないし、もし、完成したと思ってしまったら、それは明らかに目指すところを間違っていたことになる。

「正義」という言葉があるが、この単語は究極の意味を持っている。そのせいか、ある人なんかは、「正義なんてこの世に存在しないから、その言葉も嫌いだ」などと言っていた。でもそれってただの傍観者の無責任な捨て台詞でしかない。その定義だって人によって違うわけだから「正義」が実在するかどうかは関係ない。というか結局のところ「正義」は実現しない。重要なのは「正義」について考え、それを追い求め続けることだ。それが「良く生きる」ということかなと思う。だから僕は「正義」ではないが「正義の味方」なのだ。

「芸術」というのはこの「正義」に似ている。(もひとつおまけに「宗教」にも似ている)あまりにも似すぎていて実は同じ物なんじゃないかと思ったりする。「芸術」と「正義」について考えましょう。

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