2009.05.31

天保山のあたりまで知人の展覧会を観に行って、そこで今日が「ピカソ・クレー展」の最終日と知る。初日の内覧会に行くつもりが、忙しすぎて忘れていたアレだ!平静を装いながら「しかし今日観なかったら一生観ないかも」などとアタマぐるぐる働かせ、行くことを決めたが既に午後5時過ぎ。阪神高速「天保山入口」を入ったのが5時13分。今日の入場は5時半までのはずで、もうどうとでもなれという感じ。ハーバーハイウェイを摩耶で降りるとすでに29分。これは無理かと思いながらも、とにかく行って頼んでみることに。駐車場入場32分。もう入場出来ないはずなのにガードマンは笑顔で迎え入れた。よくわからんが突進。と思ったら、インフルエンザ騒ぎで一週間休んだからか、最終日の今日は時間を延長して8時までらしい。急がなくてもよかった、が、天保山から兵庫県立美術館まで20分で行けることがわかったのはちょっと面白かった。

特別突出した作品はないが、全体的にはかなりレベルが高くてはずれがない、というのが今回の重要なところ。数合わせのためにどうでもいい作品を一緒に持って来られてもつまんないし、これは本当にポイントが高い。入って最初の作品はマティス。ま、ライブでもLPやCDでも、1曲目というのはつかみだ。つかみが重要なのはお笑いだけじゃない、とはいえ、ふさわしいといえばふさわしいが、そこに使われちゃったかという感じかな。“20世紀のはじまり「ピカソとクレーの生きた時代展」”とタイトルでうたっているが、ピカソ作品の点数はわずか。でもよかったねえ。ポスターになってる「ひじかけ椅子に座る女」には心が動かなかったが「鏡の前の女」と「二人の座る裸婦」は素晴らしかった。「裸婦」の実在感みたいなものが圧倒的で、絵が制作されるより前に、画家の頭中に、まずはっきりとリアルに存在するものがあることがわかる。これは音楽も文学も他の表現でも同じで、鑑賞者にどれだけ伝わるかは、表現者がいかにリアルなイメージを持っているかにかかっている。テクニックとか表現方法じゃないのだ。「鏡」の方は表現的には対極と言えるが、その実やはり、物体や肉体の表現を捨てながらその実在をつかんだ感じ。存在してくれてありがとう、にまた出会いましたよ。

クレーはもっと大量に一度に観たい。そうしないとわかんないかもしれない。いっぱい集めると、あるとき圧倒的な実体が「ドカン!」と現れそうだ。僕と誕生日が同じマグリットの作品は言うまでもなく独特で、どれも一度観たらその後忘れることはないと思う。あとはブラックが良かったかな。そうそう、シャガールの「祝祭日」というタイトルが気になった。「祝日」あるいは「祭日」ならある特定の日を指しているかもしれんが、「祝祭日」なら土日以外の休日の総称みたいなものじゃないのか。そんな辞書みたいなタイトルをシャガールが本当につけたのか、それとも訳した人がちょっと足りなかったのか、僕には判断出来ず。辞書を引いたら,キリスト教がどうたらとか書いてあったが意味わからなかった。

さて、そしてこの展覧会のことは僕の中に知識じゃなくて経験として蓄積される。楽しい思い出は楽しいだけじゃないからもっと楽しいのだ。

インフルエンザ騒ぎで学校が休みになったとき、退屈を極めていたKを人のまばらな公演に連れていき野球の相手をしていたのだが、滅多に動かさない身体を局所的に酷使したため、その後、肩が痛いわ凝るわで往生した。しかし、それよりやっかいなのは額の左寄りに出来たいびつな腫れで、
いまだ原因不明だが、虫に刺されたというよりはなにかにかぶれた感じで、この期に及んでまだ完治せず。始まったのは明らかに公園で、グローブとボールで手が塞がっていたので、右手の手首で額の違和感をぬぐった記憶がある。考えられるのは毛虫かなにかがそこに触れたとか。近くに木があったので、それくらいしか思いつかない。腫れは半分以上引いたが、触ってもいないのにところどころかさぶた状態。たぶん治りかけなのだが、たまにじっとしておれないくらい痛がゆくなり、その下の眉を押さえて我慢する。初期には顔面の妙な火照りを感じたりもしたし、頭痛まであって、今でも耳の前のリンパ腺?が不自然に腫れているので、ときどき冷やしたりしている。この世の中にはいまだ姿を現さない静かな敵がいっぱい存在するわけだな。医者に行けと言われながら行きたくなくてほってるが、行った方がいいのかも。もう一週間以上になる。

北朝鮮にロシア?捕虜をとられてなければ相手にしないのが一番ですがね。

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