2009.07.10
ギャラリー島田の島田さんの奥さんが先日亡くなり、今日は「お別れの会」というのに行って来た。西宮名塩で仕事の途中に、無理矢理休憩時間を引き延ばし強行。神戸北野まで車で高速道路を往復した。ギャラリーはものすごい人でごったがえしていたが、それどころか付近の駐車場はどこも満車で、さらに来場の人達なのか、普段は見ないような量の車が付近の道路をひしめき合って、しかもそこへ雨。
最近,身近な人や知ってる有名人などが続けて亡くなってこういう話題ばかりだが、そんなわけで僕も「人の死」にどう対するのか、ということを考える。人はだれでも死ぬものだから「死」そのものや「死ぬとき」のことを考えても始まらないとは子供の頃、既に結論した。それに、「死」を「悲しい出来事」ととらえる向きがあるが、それって、亡くなった人の人生が何らかの意味で満足いくものじゃなかったとすることだから、どうも受け容れ難い。今のテーマは「人の死」で、「弔う」とはどういうことなのか、とかね。
島田悦子さんの死は、すごく大きな会によって手厚く受け止められていた。ただここに記するべきと思うのは、その「大きな」がすべて家族の手作りだということ。この場所で僕は、ピアニストの演奏や歌手の歌を聴きながら、そして島田さん一家の大量の写真を観ながら、さらに、司会者の「故人も喜んでいることでしょう」というコメントを聞きながら、でも、故人が喜ぶというのは、残った人達の希望なのだろうな、と思い、亡くなった人は本当にこちらを見ていたり、喜んだりするのだろうかと想像しながら、でも、そこに飾られているものすべてと、そこで行われていることすべてと、そこにいる人達や、空気や、その他のすべてが、なぜかものすごく美しく見えて、そしてその美しさは、家族の深い愛情が作り出したものであると感じて、気づくと「はあっ」とため息のようなものを出していた。ため息ではないけど、ため息のようなものだった。
最近つくづく思うのは、努力次第で実現できる目標ではなく、到達し得ない、あるいは終点のない目標に向かって少しでも少しずつでも近づこうとする、そういう態度や姿勢が大事だと言うこと。これを僕は「正義」という言葉に例えて人に話したりしたことが何度かあるが、「家族の愛情」とはまさしくこのことだと思った。結局、今日目の当たりにした会がなんともいえず素晴らしかったのは、飾られた花でも、ピアノでも、写真でもなく、これまで感じたことがないほどに、深い家族の愛情の存在を胸に押し込まれたことだった。いくぶん感動し、少しショックで、やはり「はあっ」と言いながら帰ったのだ。
「島田さんの奥さん」と多くの人が認識していた人は、実はギャラリー島田の社長だった。その闘病の様子を綴った小冊子をもらったが、なんだか息苦しくて完読出来ていない。
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